恩塚亨監督インタビュー「ゼロから道を切り開いてきた開拓者」

公開:2020/07/06

更新:2021/02/22

月刊バスケットボール2018年5月号『指導者Interview チーム作りの達人たち』より

「できるかどうかを考えるより、『どうやったらできるか?』にチャンネルを合わせるんです」

無名の高校教諭だった恩塚監督が、東京医療保健大で女子バスケットボール部を創部したのは2006年。4部リーグから、まさに“スピード出世”で1部にのし上がり、2017年にはリーグ戦&インカレともに初優勝を成し遂げた。その裏には、恩塚監督の熱く芯の通ったフィロソフィー、そして若い指導者を勇気付ける数多くのヒントが隠されていた。

最初は部員が僅か5人!試行錯誤の草創期

—なぜ大学でバスケットボール部を創設しようと思われたのですか?

高校で教員をやっている頃、代々木体育館に後輩の試合を観に行ったのですが、そこで『僕の人生、もう代々木でバスケをすることはないのかな…』と思ったんです。それと同じ頃、たまたま知り合った人から『人生は自分で作っていくものだ』と教えてもらいました。それで『やっぱりバスケットを本気でやりたい』と思い、そのタイミングで高校の理事長が東京医療保健大を新設されたので、創部の企画書を持っていきました。

—学校側からすぐ許可は下りたのでしょうか?

僕自身に何も実績がなかったので、常識的に考えれば難しかったと思いますが、その常識の壁を乗り越えるものは“情熱”しかないと思い、しつこく企画書を持っていきました。学長との面談では、『君はどんな実績があるんだ?』と聞かれて『4年かかって千葉で県大会に出ました』と答えましたね。それしかなかったので(苦笑)。その頃は、周りにその話をしても大抵『無理でしょ』と言われました。当時は『東京医療保健大ってどこ?』って感じでしたし、『スポーツ系でもない単科大学で一体何ができるの?』と。でもありがたいことに学校側に認めていただき、2006年4月に創部しました。

最初は部員も少なかったとか。

1年目は、経験者3人と初心者2人の計5人。そこにたまに看護学科の子が助っ人に来る形でした。初めての試合は、ベンチに僕しかいなかったんです。タイムアウトになれば僕が水を渡し、選手がベンチを出ていけば一人で椅子を並べ直して…。しかも、選手たちはバスケットをするために大学に来たわけではないから、オフシーズンになると練習に来られなくなりました。翌年、僕がリクルートした1年生が数人入学したのですが、退部した子もいて、選手2人きりで練習していた時期もあります。2部練習をしようとすれば『なんで1日2回も練習しなきゃいけないんですか』と言われましたし、茶髪の選手もたくさんいました。初めて練習に来たとき、金髪にしてきた高校生もいますね。指導に関しても、当時は知識も指導力もないし、どうしていいのか分からず試行錯誤の繰り返しでした。

—それでも、4部から始まって3部、2部、1部と昇格。手応えを感じたのはいつ頃ですか?

(2部昇格を決めた)2009年頃から少しずつですね。ただ、2010年は2部でも上位と戦えば前半でダブルスコアにされるチームでしたから、(11年に入学した)秋元千那実(現東京羽田)たちの代は恐らく『インカレに出られる』と思って入学してきていなかったと思います。でもその頃から2部上位と戦えるようになり、翌年(12年)に2部初優勝、インカレ初出場。その年は入れ替え戦で負けましたが、翌年勝って1部昇格を決めました。

その頃、少し練習の方針を変えたんです。それまで結構ディフェンスを練習していたのですが、試合になるとオフェンスのミスからことごとく速攻を出され、せっかく練習したディフェンスをする場がなかった。それで『もっとオフェンスを練習しなければダメだ』と気付いて、ミスをせずに攻め切る練習をするようになりました。試合よりもタフな状況を作って、そのプレッシャーをかいくぐって決め切る。その練習を意識的にやるようになって、チームも少し変わったと思います。僕は“コンフォートゾーン(安全地帯)”ではやらせません。コンフォートゾーンでやっていても、ゲームでいいパフォーマンスはできないですから。

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